瞑想から学ぶ今ここ。真我の存在

初めまして、心と身体をつなぐヨガです。

毎日を必死に生きる中で、ふと立ち止まり「私って、何のためにこんなに急いでいるんだろう?」と感じたことはありませんか?子育てや仕事に追われ、自分の心の声を聞く余裕もなく、気づけば時間だけが過ぎていく。以前の私もまさにそんな日々を送っていました。

「家に帰っても、子供に話しかけられるとイライラしてしまうことも多々ありました。自分の時間が欲しいとは思うものの、具体的に何をすればいいのかも分からず、ただただ毎日を必死に生きるだけ。

思考を観察する「真我」の存在

最近よく耳にする「今ここ」というフレーズ。最初はよく分かりませんでしたが、瞑想を繰り返していくうちに、そしてヨガ哲学を学ぶうちに、なんとなく分かってきたことがあります。

ヨガ哲学では、私たちがまとっているこの肉体の奥には、「真我(プルシャ)」という本当の私が存在すると教えられています。瞑想は、外へ外へと向きがちな意識を、この内なる真我へと戻す作業です。そこにはとても高い集中力が必要になります。

私たちの頭の中は常に騒がしい状態です。思考が次から次へと浮かんできて、それに振り回され、気づけばクタクタに疲れてしまう。それが自律神経の乱れにも繋がります。瞑想中に思考が浮かんできても、その思考を「見るもの(真我)」として観察する。ただただその思考や考え事を見る、という感覚です。

これはとても感覚的なことなのですが、この「見るもの(真我)」という存在を意識するようになってから、感情に振り回されている自分に気づくことができます。気づくことは大事な最初の一歩。怒りや悲しみ、苛立ちなど、様々な感情が湧いきている自分を見る、それを遠くから離れて観察者でいようと意識するだけで、すーっと感情が引いていく感覚があります。

『ヨーガ・スートラ』には、瞑想についてこんな一節があります。

「ヨーガとは、心のはたらきを制止することである。」(『ヨーガ・スートラ』I-2)

「その時(心のはたらきが制止された時)、見る者(プルシャ)にとって本来のかたち(見ているだけという本態)にとどまる。」(『ヨーガ・スートラ』I-3)

心の働きがない時、真我にとどまる。なかなか達する事のできる境地ではありませんが、ヨガとはそこに達するために行う行法だと教えられています。そのための八支則、ポーズの練習、呼吸のコントロール、浄化、集中、瞑想なのです。

「心のはたらきが制止されていない時は、(プルシャは)心のはたらきと同じかたち(同化した在り方)のものである。」(『ヨーガ・スートラ』I-4)

これは心が騒がしい状態の時は、真我、本当の自分から離れてしまい、騒がしい心と同化してしまうよ。という意味だと解釈しています。本当の自分から離れている状態が常に続いてしまうと、自律神経の乱れが起こった時のまれてしまう。そんなふうに感じています。

日常がヨガである

「今ここ」の経験を増やしたい。ヨガ哲学は、そんな日常の出来事をポジティブに変換する考え方も教えてくれます。まさにヨガは日常そのものです。ヨガを始めてからは、大きなパニック発作はなくなりました。たまに焦燥感や不安が襲ってきても、ヨガで学んだ哲学や呼吸法が役に立ち、その恐れがすっと引いていく感覚があります。完全に不調がなかった頃の自分に戻ったわけではありませんが、パニックになることはなくなりました。

以前は、ヨガのポーズはただ美しく取ればいいものだと思っていました。しかし、ヨガスクールに通い、ポーズによって養われる精神性が違うこと、そして何よりヨガのポーズで精神性が養われるということに驚きました。

例えば、立位のポーズは活力や自信、向上心を養い、後屈のポーズは受容や寛大な心、愛や喜びなどの精神性を養います。逆転のポーズは自由な心や遊び心、柔らかさを養い、自律神経を整える効果も期待できます。そして、座ったポーズは安定や均衡、忍耐、成熟などの精神性を養い、内観しやすいポーズです。副交感神経を優位にし、リラックス効果があるので、寝る前に行うと良い眠りへと誘ってくれますよ。

自律神経の乱れで何かを探している方、漠然とした不安や焦燥感を感じている方、体が硬いからとヨガを諦めている方。私の体験が、少しでもあなた参考になればと思います、ヨガを始めてみようかな、というきっかけになれば嬉しいです。

ヨガを日常に。

心と身体をつなぐヨガ chiharu