「委ねる」とは諦めるではない

「またあの時と同じように、血の気が引いたらどうしよう……」 パニック発作の不安に怯えていた私は、常に目に見えない「恐怖」がとても怖いものでした。
2000年前に編纂されたとされるヨガの経典『ヨーガ・スートラ』をご存知ですか?今日は「イーシュヴァラ・プラニダーナ(尊い存在に委ねること)」という教えについて。私はこの教えに対して「自分を失うようで怖い。不調の自分を認めるようで怖い。」と感じていました。それが最近は本当に少しずつではありますが、ヨガと向き合う中で私なりの受け止め方が生まれました。それは、「委ねる」とは諦めることではなく、自分の生き方の仕組みを「理解する、しようとする」ことでした。
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自律神経が乱れている時、最も辛いのは「脳の恐怖の蘇り」でした。これまでの経験の何かがトリガーとなり、一秒にも満たない速さで身体が反応して蘇ります。背中からスーッと血の気が引き、脈拍が乱れだし、怖さが増して強い動悸に襲われる。体は一度覚えた恐怖を再現出来るんだと今では感心するほどです。ヨガでは、私たちの心は放っておくと常に動き回り、この眼の前に広がる世界は、マーヤー(幻)の世界とされます。それどころかこの身体さえも幻であり、真我の乗り物であり借り物と言われています。講義ではじゃあ本当の自分とは何なの!?という問に【プルシャ(真我)】という答えに導かれていきました。アビアーサ(修習)、ヴァイラーギャ(無終着)の末に解放され、瞑想の先にある光に満ちた時間や空間のない境地です。それが真我です。
< ヨーガ・スートラが説く「委ねる」>
ヨガの根本聖典『ヨーガ・スートラ』には、「イーシュヴァラ・プラニダーナ(至高の存在に祈念すること/委ねること)によってサマーディは達成される」という一節があります。当初、私はこれを、「委ねる事は自分の人生を投げ出すこと」のように感じ、コントロールを失うのでは?という恐怖を感じていました。しかし、苦しみから抜け出せない現状が続き苦しくて怖くてこの教えと向き合ってみました。そこで出た私なりの答えは【生命の大きな流れを信頼する】ということでした。自分の力ではどうにもできない「神経の反応」。最近は憎たらしく思えてきていたのですが、「そんな時もある。私の一部として受け入れる。」それが「委ねる」の第一歩でした。
それから思考の波を「理解しよう」とし、一歩引いて眺める練習を開始。
最近は、パニックの予兆が来ても「またあの思考(敵)がやってきたな」と少し距離を置いて見られるようになりました。1日に何千と湧く思考の一つにすぎないと思えるように。ヨガの「自己探究」です。
そこでヨガの教え、イーシュヴァラ・プラニダーナの教えに心を向けて、「仕組み」を理解しようと試みます。色々と割愛しますが、全てはひと繋がりであること。今のこの現状は波のひとつに囚われた私にすぎないこと。一つの波に執着せずに大いなるものに目を向ける事。空や大いなる自然に感謝をして祈ること。日々何か献身的な行動をまずはとってみること。出来るかは別としても理解する努力をします。それが答えでした。ヨガをしていなければたどり着くことは確実になかったことです。
インテグラル・ヨーガ
「世界そのものが神である
我々の態度ひとつでたやすく礼拝へと変わる
最大限世界に奉仕するのだという思いを持ってするのならば、それはどんなことでも良い、テーブルにでも椅子にでも、周りの何にでも奉仕することができる
どんなものでも、ぞんざいに扱えば苦痛を覚える、何にでも優しく、ヨーガのタッチで触れよう」
本当に日常であり日々の事ですよね。怖いと子供や、物に対しても荒い対応になり自分のことで精一杯になってしまう。先人たちの残してくれた「しくみ」に少しでも意識を向けることが出来たら、私で言う心の波によって現れる、身体の反応、そして強い執着から解放されるような気がしています。それに集中できなくなると思考があちこち行きますよね。
ヨガは、行為そのものに集中し、結果に執着しないよう教えます。「今の私にできることは何か」「周りが笑顔になっているか」という調和を基準に動く。上手くいきそうだからやる、失敗しそうだからやめる……そんな損得勘定から離れた時、そして大いなるものに心を向け続けようとくり返し繰り返し。それてしまってもまた引き戻しながら少しずつ進んでいきました。気が付いたら自律神経を締め付けていた心のもやもやが少しずつ溶けていくのを感じることが出来ています。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。 少しでもヨガの智慧を通して、穏やかで安心できる事心より願っています。

